はじめに
神頼みという言葉も有りますが、ああいうのは実際に効果があるのでしょうか?
「非科学的だから論外」と切り捨てるのはではなく、今日は祈りの効果が実際にあるのかどうかについて考えてみたいと思います。
最初から神頼みは❌
神頼みだけで運良く成功できればいいなと思うかもしれませんが、この考えは良くありません 。
ちゃんと努力することが大事です。
というのも、努力する習慣を身につけた成果が成功なのであって、努力する習慣を身に付けること自体にも大きな価値があるからです。
もちろん、結果が大事ではないということではありません。
結果も重視します。
ですが、神頼みで成功を手に入れたいという人は、努力する習慣を身に付けること自体に大きな価値があるということを根本的に理解できていません。
努力する習慣を身につけることができれば、その習慣は様々なことに応用できます。
それだけでも、あなたが成功する可能性は飛躍的に高まります 。
また、すぐに神に頼ってしまう人の傾向として、自分の頭で考えて問題を解決しようとするのではなく、すぐに何かや誰かにすがろうとして、依存しようとしやすいということが挙げられます。
これでは、いつまでたっても成長しません 。
祈りに効果はあるのか?
これは、僕の個人的な考えですが、祈りによってある現象が起きる確率が変わったりするということはないと思います。
例えば具体的に言うと、祈ることによって宝くじが当たる確率が上がるというようなことはないと思います。
ですが、祈るくらい真剣な気持ちで物事に取り組んでいるのであれば、物事を真剣に見ることで観察力が上がって、何か重要なことに気付ける可能性が上がるということはあると思います。
つまり、祈るくらい真剣に取り組むことによって自分自身が変わって、それが結果に影響して結果が変わるということはあると思います。
結局は、自分が変わらなければ結果も変わらないと思いますので、自分を好ましい方向に変えるために、祈りを利用するのはアリなのではないでしょうか 。
反証可能性がなければ科学ではない
反証可能性とは、科学哲学者のカール・ポパーという人が提唱した用語です。
反証可能性は、「どのような手段によっても間違っていることを示す方法がない仮説は、科学ではない」と説明されます。
「間違っていることを示す方法がなければ、科学ではない」というところがポイントです。
では、例を見てみましょう 。
例えば、「すべては神の思し召し」という言葉があります。
「あの人と出会えたから成功できた。あの出会いは、神の思し召しだった」とか、「あの大失敗のおかげで今の成功がある。その時は死にたいと思ったけど、あの大失敗こそ神の思し召しだった」みたいな感じで使われます。
この『神の思し召し』という言葉ですが、実は今挙げた例だけではなく、世の中で起こりうるあらゆる現象に対して、「あれは神の思し召しだ」と言うことができます 。
宗教などの勧誘にも使われ、あらゆる現象が説明できてしまう『神の思し召し』という言葉ですが、実はこの言葉には反証可能性がありません 。
『成功したのも神の思し召し、逆に失敗したときは、それも神の思し召し』ということであれば 、「では、どうなれば神の思し召しではないといえるのか?」というような反証する方法がないということになります 。
つまり、反証可能性がないので、『神の思し召し』は科学とはいえないということになります。
あらゆることを説明できてしまうということは、実は何一つ説明できていないのと同じなんです 。
祈りにも同じことが言えませんか ?
「あの時祈ったから成功できた」とか、「あのとき祈って、結果は失敗だったんだけど、その失敗のおかげで成功できた」など、これらは先ほどの「成功しても神の思し召し、失敗しても神の思し召し」と同じで、反証可能性がありませんよね?
であれば、この時点で科学ではありませんし、もっと言うなら、祈りと結果には因果関係がないのかもしれませんね 。
まとめ
結果だけを求めて、最初から神頼みをするのは良くありません。
結果はもちろん重要ですが、それと同じくらい目標達成のために努力する習慣を身につけることは重要です 。
なぜなら、努力する習慣は、何か違う目標ができたときにも利用することができるので、それだけであなたの成功する可能性は飛躍的に高まるからです 。
また、祈ることによって願いが通じで結果が変わるというよりは、祈るくらい真剣に取り組むことによって、自分自身が変化して、それによって結果が変わるということだと僕は思います 。
安易に神頼みにすがろうとするのではなく、自分を変えるための手助けとして祈りを利用するくらいの気持ちで付き合うのが良いのではないでしょうか。
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